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Story:画家を目指したきっかけ

目覚め

 幼い頃の伊藤三春は、絵を描くことが大好きでした。1才6ヶ月の時に漫画を見て、「赤銅鈴之助」の絵を描いた彼は、父親から「お前上手いな」と褒められ、自信を持つようになりました。その瞬間から、彼は絵が上手いという自覚を持つようになったのです。

 幼稚園の時、彼は園長先生からも絵を褒められました。「この子は将来絵描きになるぞ」と言われた瞬間、彼の心には大きな夢が芽生えました。絵を通じて表現すること、美しい世界を創り出すことに魅了されていたのです。

 小学校1年生になると、「絵を上手く描く児童がいる」という評判が学校中に広がりました。漫画展に出品した結果、賞をとることができました。これをきっかけに、彼は勉強よりも絵を描くことに没頭し、出品した全ての展覧会で賞を取り続けました。絵を描くことへの情熱をますます深めていったのです。

東京への自信

 小学生4年生のある日、彼は漫画家の先生から東京に来るように勧められました。彼は心躍らせながら、内緒で東京へ行く準備を進めていました。しかし、その計画は母親に見つかってしまいました。母親は心配そうな表情で彼を止めようとしました。「東京は遠いし、危険なところもあるから、行くのはやめなさい」と言われた瞬間、彼の胸には悔しさと挫折感が広がりました。
彼は母親の言葉に従い、東京への旅行を諦めなければなりませんでした。その時の気持ちは複雑でした。一方で、新たな経験や刺激を求める欲求が湧き上がり、東京で自身の才能を試したいという思いもありました。しかし、同時に家族の安全という大切な価値観も理解していたのです。
彼の夢は一時的に封印されましたが、それでも絵を描く情熱は消えることはありませんでした。

 中学校、高校も彼は絵の才能で周囲を驚かせました。美術では常に優秀な成績を収め、展覧会やコンクールに積極的に参加しました。数々の賞を受賞し、そのたびに私の絵に対する自信と情熱が高まっていきました。
高校卒業後、美術大学に進学すると、先生たちよりも絵が上手いことに気付きました。大学でも、展覧会で1等賞を受賞するなど、さらなる成長を遂げました。
東京でも賞がとれる。自信を持った彼は、沢山の展覧会やコンクールに出品し賞金を貯め、パリのコンクールに参加するための資金としました。パリのコンクールでの結果は見事に入選でした。

画廊や旅行会社から勧められてパリへと向かい、ル・サロンに作品を出展しました。彼の作品は3万点の中から300点に入選しました。
その後ル・サロンでは、8年連続で入選する快挙を達成しています。ル・サロンの準会員となり、サロンコンパレゾン1等賞も手に入れています。

決定的な出会い

 20代になった彼は、憧れていたピカソに会うために旅行を計画しました。なかなか会えずにいましたが、最終日の前日にようやくピカソに会うことができ、自身の作品を見てもらえるチャンスを得たのです。

「お前はパリに出展していた梟の絵を描く画家だろう。」
驚くべきことにピカソは彼を知っていてくれました。
さらにピカソは「日本人で君だけを弟子にしたい。今すぐ日本での絵画活動を辞めろ。そして、日本の絵画界は古い体質だから、新しい風を吹かせる存在になってほしい。」と言ってくれました。
日本での絵画活動を辞め、新たな挑戦に向かう決意を固めました。

 ピカソに可愛がられ、多くの助言や指導を受けました。
パリを拠点にし、サロン・ドートンヌに出展を目指しました。彼の作品は高い評価を受け、多くの人々から称賛されました。ピカソの他にも才能ある画家たちとの交流を通じて、彼の技術と感性はさらに磨かれていきました。

 サロン・ドートンヌでは5回連続入選し、フランス画壇に顔を出せるようになりました。
ベルナール・ビュッフェの家に招かれ、「ムーランルージュ」の社長からもパリにとどまるよう勧められました。「モンマルトル」や「絵描き広場」では絵を売って渡航や滞在のお金を稼ぎました。
パリ1点に絞った事が報われてきました。
ル・サロン、サロン・ドートンヌ、ソシエテ、ナショナル・デ・ボザール、サロン・ビオレ等のフランス一流展に出展し、フランス画壇で名前が売れ始めました。
南フランスでも入賞し、フランスの貿易港で賞をとり、フランスの作家の友達が増えました。アランドロンの家にも招かれ、ルーブル美術館で有名なデザイナーとも会い、家にも招かれました。

世界への挑戦

 しかし、彼は自分の世界を広げるためにパリだけにとどまることを望みませんでした。20代後半には、彼の父親が数百万をだしてくれて、ヨーロッパ6カ国(スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス)を回りました。彼はヨーロッパ各地を巡りながら、さまざまな文化や風景に触れることで自身の絵画に新たな刺激を求めました。同時に、日本のレベルの低さも感じていました。
彼は、ヨーロッパを制覇した後に香港を訪れました。初めは日本の画家は扱われないと言われましたが、サロン・ドートンやル・サロンの会員としての地位を持つことで、彼作品は認められるようになりました。さらに、韓国、中国、タイなどを巡りながら、東南アジアでの活動も展開しました。

35歳から45歳の間、伊藤三春はアフリカを訪れるスケッチ旅行に出かけました。タンザニア、ケニア、コンゴ、南アフリカなどの国々を訪れ、大自然の美しさや異文化の魅力に触れました。アフリカの鮮やかな色彩と情熱的なエネルギーは、彼の絵画に新たな息吹を与え、作品の表現力を一層引き立てました。

 アフリカでのスケッチ旅行の後、イギリスやアメリカに招待されました。イギリスでは友好協会を設立し、アメリカでも複数回招待されるなど、その名声は国境を超えて広がっていきました。さらにブラジルでは友好協会会長になり、ロシア、韓国、中国、モンゴルで友好協会を作り、今はオーストリアや、イラン、イラク、サウジアラビアの中東諸国と交流をもち、国際的な交流を深めていきました。

 彼は自身の経験と才能をもとに、世界のさまざまな地域で個展やワークショップを開催しました。その結果、さまざまな国の画家や芸術家たちと交流し、彼の絵画活動の国際的な影響力を証明しました。

現在の活躍

 彼は常に新しい挑戦を追求し、自身の絵画活動を続けています。彼の作品は美しさと独自性に満ちており、世界中で多くの人々に感銘を与えています。そして、異文化の美しさと多様性を描き、人々に心を動かす作品を生み出し続けています。

 現在の作品は、墨の力強さと繊細さが融合した独特の表現スタイルであり、見る者の心に響き渡る美と感性の輝きを放っています。
梟や牡丹を題材にしながらも、そこには彼自身の魂と情熱が込められています。その作品を通じて、我々は静謐なる美と感性の輝きに触れ、心の奥底に響く何かを見出すことでしょう。そして、時代を超えて私たちの心を魅了し続けています。

2023年4月某日の伊藤三春氏へのインタビューを元に作成

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